名も無き名画がってる


一人の青年が、白い紙切れを片手に歩いている。褐色の肌の彼、マリク=イシュタールは異国の地の入り組んだ路地に入り込んでいた。しかし、それも無理な事ではなく、この町はこの地で産まれた人間が何年という月日をかけて、やっと自分の庭の如く駆ける事が出来るものである。新参者の青年には土台無理な話であった。
そして、迷う人間とは往々にして一度は目的地から遠くへ足を伸ばすものである。マリクは磯の香りに導かれ、目的地とは若干離れた場所を歩いていた。少々薄暗い路地を、誰か道を知る人間を探しながら歩く。
角を曲がったところで、急な日差しを浴びた。マリクの視覚がちかちかとした鈍い痛みを訴える。視線の先の日溜まりの中に人影を認め、声を掛けようとしたマリクは、はっ、とした。


マリクの目の前に有るのはどれもこれも絵、絵、絵。
描かれている人物も皆同じ。違う事は絵の大きさのみ。

どのカンヴァスにも満面の笑みを浮かべた描かれた人物の中心に、此方を向いていない人間が一人。


マリクは一種の感動に近しいものを覚え、暫くの間見入り、しかしその人間に声を掛けた。
「もし、これらの絵は貴方が描かれたのですか」
その声に反応して振り返った人物にマリクは驚かされた。声が出ない。
無理もない。振り返った人物はカンヴァスに描かれてる人物にとても似ていたからだ。
振り返った人物は何も話さず、沈黙が支配する。
暫くして低く、この裏路地に美しく響く声で青年が肯定を示した。
「ええ、私が」
そこでマリクはやっと自分が青年を凝視していた事に気づき、慌てて視線を絵に移す。
しかし、もう一度まじまじと見てもやはり描かれているのは笑顔の一人の少年である。
どれも水彩画で描かれているようで、淡い色合いが絵の少年をより一層清らかに写し出している。
マリクは冷めることない余韻に浸りながら気になったことを質問した。
「売り物では無いのですか?」
本当ならば、彼の姉が待つ博物館への道順をすぐにでも聞いて行かなければならなかったが、美しいものを見ることに於いて、マリクは無粋な人間ではなかった。
そこには沢山の絵が並べられているのに、そこには値段の書かれているようなものは一つも無い。
てっきり青年は描いた絵を売って生計を立てているのだと思ったのだ。
青年はマリクの問いに、静かに手にあったパレットを置いた。
「違いますよ」
では趣味でこの様な絵を描いているのだろうか。これ程沢山の絵を?
マリクの顔に出ていた疑問の相を読み取った青年は口の端を吊り上げ、ニヒルに笑った。
「彼に、海を見せに来たのです」
「・・・かれ、というのはこの、カンヴァスの?」
俄かに信じられないような話ではあるが、芸術家とは往々にして一般人とは感性の捉え方が違うのではないのだろうか、と云うことを思いながら、マリクの次の関心は当然カンヴァスの少年へと移っていく。
「失礼ですが、彼はいったい・・・?」
この問いに青年はカンヴァスを見つめながら答えた。
「彼は私の相棒です」
見つめる目には何とも云えない感情が篭っている様に見える。
「私の相棒で私の最も愛しい、私だけの、唯一の恋人です」
青年の言葉と、言い終わってからこちらを振り返った彼の真っ赤な目とに、少なからずマリクは衝撃を受けていた。
「気持ち悪いと思われても構いはしません」
しかしマリクにはその事実がすとんと心の中に納まった。青年と絵の少年にとって、その事はとても自然なことの様に思えた。
マリクとの会話によって、青年はいくらか熱っぽくなったように語り始めた。
「今まで沢山たくさん描いてきました。譲って欲しいと言ってきた者もいましたが、私は一つも売りはしませんでした。相棒は私だけの、そう、私だけのものなのです」
青年の様子からは彼がどれだけ少年を愛しているかが伝わって来るようだった。
「世界中を相棒と一緒に見ているのです。私と相棒はいつも傍にいなくてはならないのですから」
うっとりとカンヴァスを撫でながら青年は続けた。
マリクはどうやら青年は少年の絵を持って世界を見て回っていると理解した。
「すべての絵を持って見て回っているのですか?」
しかし、如何せん大量の絵である。これだけ大量の絵がありながらまだ絵を描き続けている様を見れば、持ちきれなくなるのは当然だろう。
「持てなくなった絵は燃やして、灰を風に流すのです。そうすれば相棒に届きます」
マリクの問いに青年はこちらを見ることなく答える。その目はだんだんと先ほどの色合いを失っている様だった。
「相棒は遠くに行ってしまったのです。片時も離れる事は無かったのに、相棒は私を置いて、私に生きろと、死ぬことも出来ずに私は・・・私は・・・・・・相棒、どうして。私を・・・あいぼう・・・・・・わたしは・・・オレを・・・あいぼう・・・・・・オレは・・・―――」
今ではすっかり暗い色に彩られた瞳で、青年はカンヴァスに半ば縋る様にうわごとを繰り返し呟いている。声をかけたマリクのことなどもうすっかり忘れているようだった。


その場に、いつも青年にパンを分けているという婦人が来た。その婦人の話では彼はこうなってしまうと、その間は全く反応を返さないということらしい。
そっとしておいてあげてという婦人の言葉に頷き、マリクは婦人に博物館の場所を聞き、案内して貰うことになった。


最後にもう一度振り返って青年と絵の少年を見つめた。
きっと、今、青年の世界には少年しかいないのだろう。

口をあけて笑っている少年が、マリクには声にならない嗚咽を上げて涙を流している様に見えた。



名も無き名画はわない
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マリクと闇(表)。AIBOは流行病にかかって、という設定らしい(←




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